夜勤明けで帰ってきて、ソファに座る。やっと休める、と思ってスマホを手に取る。
動画を見て、SNSをながめて、気づけば一時間。
体は座って休んでいたはずなのに、なぜか頭は重いまま。「休んだのに、休めた気がしない」——そんな感覚だけが残る。
休みの日も同じです。ごろごろしながらスマホを見て、夕方になって、「今日も何もできなかった」と少し落ち込む。
寝ても、座っても、ごろごろしても、なぜか頭の芯が重い。やりたいことがあったはずなのに、それをやる元気も湧かない。
——そんなふうに、「休んでいるのに、疲れが抜けない」と感じる人に向けて書きます。
結論を先に言うと、休めた気がしないのは、あなたの休み方が下手だからではありません。体は休んでいても、頭にはずっと情報が入り続けているからかもしれません。

「座って休む」と「頭を休める」は、別のこと
まず言っておきたいのは、休んでも疲れが抜けないように感じるのは、あなたが怠けているからではない、ということです。ただ、体は休んでいても、頭には情報が入り続けていることがあります。
ただ、ひとつだけ見落としがちなことがあります。
それは、「体を休めること」と「頭を休めること」は、別だということです。
ソファに座ってスマホを見ているとき、体は確かに休んでいます。でも、頭の中はどうでしょう。
次々と流れてくる動画、ニュース、誰かの投稿。目から入ってくる情報を、頭はずっと追いかけています。体は止まっていても、頭の中は、休んだ感じになりにくい。
これでは、休んでいるようで、頭はちっとも休めていません。
これは、スマホに限った話ではありません。テレビをつけっぱなしにする、休みながら仕事のことを考える、明日の段取りを頭の中で組み立てる。どれも、体は休んでいても、頭は動き続けています。
疲れた日ほど、スマホがいちばん楽に感じる
やっかいなのは、疲れている日ほど、スマホに手が伸びることです。
考える力が残っていない日は、自分から何かをする気力もありません。だから、ただ受け取るだけでいいスマホが、いちばん楽に感じます。
でも、その「楽」は、頭を休める楽ではありません。むしろ、休んでいるつもりで、新しい情報を入れ続けている。気づかないうちに、頭はまた忙しくなっています。
夜勤明けの帰り道、電車でスマホを見て、家に帰ってもスマホを見て、寝る前までスマホを見る。一日中、目と頭を使いっぱなし。これでは、頭がひと息つく時間が、どこにもありません。
私自身、休みの日にスマホを見て一日が終わって、「ちゃんと休んだはずなのに、次の出勤がしんどい」ということが、よくありました。
そういう日は、たくさん動画を見たはずなのに、何を見たかもよく覚えていない。ただ時間と、わずかな元気だけが、すうっと吸い取られていく感じでした。
「休む」のではなく、「何もしない」をつくる

ここで、休み方を少しだけ変えてみます。
「休む」と思うと、つい、スマホを見たり、動画を流したりしてしまいます。それは、何かをして気をまぎらわす休み方です。
そうではなく、「何もしない」時間を、ほんの少しだけつくる。休むことと、情報を入れないことは、別だからです。
何もしない、というのは、文字どおり、何も情報を入れないということです。スマホを置いて、テレビも消して、ただ、ぼーっとする。窓の外をながめる。空をぼんやり見る。湯気の立つお茶を、ただ眺める。それくらい、何でもないことでいいのです。
何かを「する」のではなく、何も「しない」。これが、頭を休めるということだと思います。
人は、何かしていないと「サボっている」気がしてしまいます。でも、何もしない時間は、サボりではありません。頭に新しい情報を入れないための、短い余白です。
最初は、落ち着かないかもしれません。何もしないでいると、手持ちぶさたで、つい何かを始めたくなる。でも、それでいいのです。ただ座って、頭に何も入れない時間が、少しでもあれば。
長さより、「入れない」時間があるかどうか
大事なのは、長く休むことではありません。
一時間ぼーっとしなきゃいけない、なんてことはありません。むしろ、疲れているときに「一時間休もう」と思うと、それ自体がプレッシャーになります。
まずは、一分でいい。
トイレのあと、お茶を入れたあと、寝る前の布団の中。一分だけ、スマホを手に取らずに、ぼーっとする。たったそれだけです。
長さより、「頭に何も入れない時間が、一度でもあるか」のほうが大事だと、私は感じています。一分の「何もしない」を、一日に何回か挟むだけで、頭の重さが少し変わってきました。
劇的に変わったわけではありません。ただ、休みの日の終わりに感じていた、あの「結局ぐったりして終わった」という感じが、少しだけ薄くなりました。頭の奥のざわざわが、ほんの少し静かになる感覚です。
何もしないが、最初はいちばん難しかった
正直に言うと、私もこれが最初はうまくできませんでした。
スマホを置いて一分ぼーっとしようとすると、すぐに「何か見たい」「時間がもったいない」とそわそわして、結局スマホを手に取ってしまう。一分が、やけに長く感じました。
でも、何度かやっているうちに、気づいたことがあります。その「そわそわ」自体が、頭が休めていないサインだったのです。常に何かを入れていないと落ち着かないくらい、頭が情報に慣れてしまっていたのだと思います。
だから、最初はうまくできなくて当たり前です。一分もたなければ、十秒でもいい。「何も入れない時間」に少しずつ慣れていくくらいの気持ちで、十分でした。
介護の仕事の合間にも、はさめる
これは、まとまった休みがなくてもできます。
夜勤の休憩中、スマホを見る前に、一分だけ視線を外して、ぼんやりする。仮眠の前に、スマホを置いて、ただ横になる。
夜勤明けの帰り道、電車で動画を見るかわりに、窓の外をながめる。
どれも、特別な時間も、道具も、お金もいりません。ただ、「情報を入れない一分」を、いつもの隙間に差し込むだけです。
夜勤は、長い時間ずっと気を張り続ける仕事です。コールが鳴るかもしれない、急変があるかもしれない——その緊張が、休憩中も完全には抜けません。だからこそ、ほんの一分でも、意識して何も入れない時間が、いつもより必要なのかもしれません。
疲れている介護の毎日だからこそ、頭に何も入れない一分が、あとから少し助けになる日もあると思っています。
今日できる、小さな一歩

今日、一回だけ。
スマホを置いて、一分だけ、ぼーっとしてみてください。
何かを考えてしまっても大丈夫です。ただ、スマホや動画を見ず、新しい情報を入れない時間にするだけで十分です。窓の外でも、天井でも、ぼんやりながめるだけ。
一分たったら、終わりです。それ以上やらなくてかまいません。
「何もしない」なんて、もったいない気がするかもしれません。でも、その一分は、働きっぱなしだった頭に、何も入れない余白をつくってくれます。
もし一分が長く感じたら、十秒でも大丈夫です。大事なのは時間の長さではなく、「何も入れない瞬間を、自分にあげた」という、その事実のほうです。
おわりに
休めた気がしないのは、あなたが悪いのではありません。体を休めても、頭がずっと働いていたら、疲れは抜けにくいものです。
スマホを見て気をまぎらわす休み方も、悪いわけではありません。ただ、それだけだと、頭は休みにくい。
たまには、何もしない。情報を入れない一分を、自分にあげる。
忙しく働いていると、休むことにまで「ちゃんと休まなきゃ」とがんばってしまいがちです。でも、頭を休めるのに、がんばりはいりません。むしろ、がんばりをやめる時間です。
それだけで、疲れが全部消えるわけではありません。それでも、「休んでいるのに、情報を入れ続けていた」と気づけるだけで、次の休み方を少し選びやすくなります。
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